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19日目。


大変ごぶさたしております。
帰国して半年、日本は大変な時期に突入しておりますが、
私は元気にやっています。



被害に遭われた方、今も最前線で苦闘してらっしゃる方を思うと、
どうしようもない思いがあり、多くの人が強くいられるように祈るばかりです。




ここでは、私の目から見えていたこの数日を、書いておこうかと思います。
(思い出しながらのメモなので、漠然としていて、長いです)



1日目:
3月11日、ミーティングを終えようとした時、揺れがきました。
14時46分より少し遅れて、神奈川には揺れが届いた感じで、5分近く揺れていました。
すぐさま、スマートフォンで、震度を確認すると、宮城県沖に揺れが分布していて、
震度は7。
いや、そんな筈はない、もっと大きいだろう、というのが、第一印象でした。



それから事務所に戻り、
皆、騒然とはしているものの、特に転倒したものもなく、
ほぼ、普段通りの作業に戻りました
(普段、定期的な安全衛生点検を行っているのが、非常に有効だったと思います)。



また、その後、複数回の余震があり、建物からの退避が放送されました。
エレベータを使わずに、数百人が、ぞろぞろと階段に連なり、
建屋前の空きスペースに避難。
あらゆる場所で、家族に電話をしようとして通じない、という話がされていました。
空き地では、1時間くらいぼんやりしていた気がします。
その間に、スマートフォンで、テレビニュースを確認し、
町が津波にのまれる映像をみました。
口では、“未曾有の大災害”が起きた、という話を同僚たちとしていましたが、
それでも、関西淡路大震災規模の局所的被害しか、想像できていませんでした。
会社の隣の建築現場では、作業を続けている人もいましたし、
日常の空間と、テレビで映される映像との乖離が大きく、
現実を現実として認識するのが難しかったように思います。



17時くらいには、一度建屋内に戻り、帰宅できる人は帰宅する、
ということになり、その時点でも、建屋の電気は普通に点灯していましたし、
電車が停まっている、というニュースを聞いても、
あまり気にせずに、帰宅の途につきました。



あれ?これはいつもの地震と違うぞ、と思い始めたのは、
公道に出て、信号が機能していない、町の明かりが消えている、と気付いた時でした。
信号が消えているので、徐行しながら、ゆっくりとバイクを運転しつつ、
町をいくつまたいでも、建物に明かりがない、ということに不安がつのりました。
水道も止まっているかもしれない、コンビニが閉まっているから
この後数日食料が入手できないかもしれない、と思いながらも、
まずは、状態を知らないと、と帰宅し、
水とガスは確保されていることに安心しました。
電気はやはり止まっていたので、まずは、
ロウソクと懐中電灯とラジオを引っ張りだしました
(1つの懐中電灯は、既に、自然放電で、使えない状態になっていました)。



この日の夜から数人で予定していた旅行の中止を決めるまで、実質4時間くらい。
旅館や高速道路の状態を電話網が使えない中、確認するのには、
インターネットが有用でした。
電気は来ていないのでパソコンは使えませんが、
スマートフォンでのPCメールは、通常通り機能していました
(携帯メールは、遅延があるようでしたが)。



この連絡を行っている中、神奈川の停電地域が少しずつ回復していることを知り、
夜中近くになって、私の家にも電気が戻りました。
いつ電気が戻るか分からない中、
スマートフォンの予備の充電器を大切に使っていましたので、
電気が戻ってようやく、テレビを長時間見ることができました。
そして、ようやく事態の深刻さを受け止めることができたように思います。



2日目:
なかなか寝付けずに茫然とニュースを見ていると、電力の確保が難しく、
停電がまた起こるかもしれない、ということを聞き、
昼過ぎに、買い物に出かけました。
比較的、お店の中は落ち着いていて、
懐中電灯や単1電池、電気を使わずに食べられるパン等の食品が
軒並み売りきれている他は、通常通りに営業しているのを見て、
少し落ち着いたのを覚えています。



3-5日目:
余震と、計画停電のニュース漬けの日。
日曜日の停電は見送られ、月曜日から計画停電と経済活動が同時に始まってしまいました。
おそらく、電力会社の考える事態のアラートが、
一般企業には正しく伝わらない中、普段通りの通勤をしようとして、
会社までたどり着くのに、数時間の行列をする、なんていう事態に陥っていました。



6-8日目:
電車の運行が、部分的完全停止ではなく、
全体の2割削減等、どうにか活動できるよう調整され、
何とか経済活動が動き出した中、今度は、ガソリン量が不足して、
物流が機能停止に陥り始め、生活に影響し始めました。
計画停電と物流停止の中、平日は、物が買えない
(食料も、生活必需品も、買おうとしても計画停電で、
18時以降は店が閉まっているし、開いている店には物がない)という事態になりました。



9日-11日目:
買い占め、という言葉が出ていましたが、一部の人にとっては、
単なる1週間分の買い出しだったでしょう。
週の5日間物が買えなければ、
その分の買い物が週末に集中するのは、仕方のないことのように見えました。



12日-15日目:
ガソリンが少しずつ流れてくるようになり、物流が復活し始めました。
ガソリンスタンドへの長い行列もなくなり始め、
18時で閉店していたお店も少しずつお店を延長して営業してくれるようになり、
トイレットペーパー等紙製品や、納豆等の一部商品を除いては、
商品が通常通りに並ぶようになりました。



16日-18日目:
大きな余震の回数も減り、週末に出かけることにも、それ程気構えはいらなくなりました。



19日目:
さて、神奈川の生活は落ち着きました、と言いたいとこなのですが、
地震の影響が落ち着いていくに従い、
福島での原発事故のニュースが、日々のしかかってくるように思えます。




今の状態は、↓こんな感じでしょうか。



・設計時の予測規模を上回り、津波に耐えられず一部損壊。
・完全に停止する為には、炉心を冷却し続けないといけないが、冷却機能不全。
・冷却機能復旧作業をしつつ、海水・真水にて冷却・減速を試行。
・冷却が間に合わず、炉心が一部溶融。
・溶融した燃料に触れた水が管理区域外にも。



原子力の権威たちが、今知恵を集めて対策している筈なのに、
見えている対策が分かりやすすぎるのが、ちょっと不安です
(緊急対策って、そんなものかな?)。
廃炉するにも、冷却できないと、どうにもできないというのがやっかいですね。
(割れ鍋中の熱棒を流水冷却するよりは、
熱棒を解体して廃却処分ができれば良いんでしょうが)



放射性物質の影響は、
特にお子さんを持ってらっしゃる方は、心配が多いと思いますが、
信頼性のおける情報を得て、解釈していくのが良さそうですね。

naoco * 一言 * 00:09 * comments(0) * trackbacks(0)
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